抜け駆けする女子

 

今やヤングジャパニーズの身体の一部になったスマートフォン
私の姉上によれば、
その使いこなし方の如何が女子力の定義の中に組み込まれて久しくなってきたそうです。
 
 
いつの時代も、女子は「カワイイ自分」の実現に余念がありません。
しかしながら、この「カワイイ自分」実現のための行為が万人の幸せになり得ない
「抜け駆け」のような行為に成り下がると、
途端にきな臭くなってきます。
 
 
先日たまたまスマートフォンのサイトをみていたのですが、
この「抜け駆け」に関連する衝撃の謳い文句を発見してしまいました。
そのあまりの簒奪的仕組みと違和感にに女子でもないのにふつふつと義憤的感情が湧きあがってきたほどです。
 
 
その一枚がこちら
 

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『友達といっしょに撮るときも、パーフェクトセルフィー機能を使えば「自分だけかわいい」一枚に』♪
 
 
この写真とキャッチコピーを考えた人は相当何かの感覚が不自由だと思ってしまうのですが、
この猛烈な違和感の在り処を紐解いていきたいと思います。
 
 
写真の中で自分だけ可愛くみせて仕舞う(ヒエラルキーの一方的創出)ことで、
この一枚を閲覧した男子に対して「競合よりも優位に立つ」ことができるわけですが、
 
 
これは悪く言ってしまえば、
まわりのブスたちに囲まれることで己の相対的価値を飛躍的に向上させる」
というなんでも比較対象を作ってしまう人間の習性を巧みに利用した抜け駆け戦略です。
 
 
そもそも「カワイイの実現」は誰かを蹴落として達成するものではなく、
ステークホルダーが皆己が実現したい「カワイイ」を目指していく環境下で互いに切磋琢磨するオープンイノベーション的発想が望ましく感じます。
 
 
「自分だけ」という発想は実に貧しいものです。
 
 
さて次に私が違和感を申告しなければならないのがその写真です。
キャッチコピーが「自分だけカワイイ一枚に」というものであったので、
てっきり「自分」の衛星的存在の人間もこの文明システムを駆使すれば可愛くなることができる存在でなければなりませんが、
 
 
「自分役」の女性を囲むのは、
可愛くなっても逆にこちらが困ってしまうような、
どう考えても刺青をちらつかせてそうな逞しい男の子たちではありませんか。
左の男子は15秒ぐらい見ていると確かにちょっと可愛くなっているように見える
 
 
そもそも可愛いキャパシティを持ち合わせない映画の序盤で主人公に返り討ちにされてそうな男子たちを並べても
これでは当初の「他の人よりも抜け駆け的に可愛く撮れる!」という目的すら遂行することができません。
 
 
掲載する写真を間違えてしまったと信じたいところです。
 
 
全く収集が付かなくなってしまいましたが、
「カワイイ自分の実現」には、抜け駆け的発想ではなく、
自己の長所伸展的発想を目指していく必要があるように感じます。