朝の東西線は生存空間が著しく欠落しているため、
新聞はおろか、本はおろか、スマートフォンすら見ることも儘なりません。
そのため、より積極的にめくるめく妄想を繰り広げる時間にしています。
 
 
そして、最近よくみる広告が、
 
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※インターネットより流用
 
この広告なのですが、茂木さんの頭の毛が桜島よりも大爆発しております。
恐らく面白いであろう書籍なのですが、
 
まるで小学校の流しをゴシゴシするステンレス金属たわしに超剛速球で投げ込まれた空豆
はたまた綿飴を枕に討死した一向一揆の僧兵、
はたまたシマウマの骨が右頬にひっかかって苦悶するムファサ
といった形容詞が芋づる式の連想され、おちおち電車に乗る暇がないくらいの茂木さんヘアーの爆発ぶりで
 
 
「耳は聞こえるのか?」
「見えない裏側はどうなっているのか?」
「鳥は産卵してくれるのか?」
「実は綿の着脱式なんじゃないか?」
「いや、むしろこの雪雲のような物体は背景の一部にすぎない」
といった自問自答をしては楽しんでおりました。
 
 
同時に思いましたのが、
「毛の存在意義はなにか」
という問いです。
 
 
人体を保護するにはあまりにも貧弱な装備であり(姉上と剣道ごっこをしていて頭を打ち抜かれましたが、全然保護できませんでした)、
羊のようにもふもふできる訳でもなく、
光合成ができるわけでもなく、
生えていても貫通して日焼けしますし、
ムダ毛と言われては随所で日々刈り取られ、
刈ったところで火にくべてキャンプファイヤーをする訳でもございません。
 
 
すなわち毛とは、機能的貢献度というよりもむしろ、
なんとなくみんな生やしてるから生やしておいたろ、という
人間が社会的動物であるが故に延命され、「ファッション性」といった記号へと昇華されているものと考えます。
 
 
もし私が生まれてこの方誰とも関われない部屋に隔離されていたとしたら、
「何人たりとも我が頭部への冒涜は許さぬ」と言って毛を断固処断していたか、
「この毛は神の化身なので伐ると死ぬ」と思って整えることはしないと思います。
 
 
翻って、その点茂木さんは人間社会の毛文化から解放されているのかもしれません。