おしりかじり虫はどこを齧っているのか?

 

かの"煩悶青年"である藤村操をして「不可解」と言わしめたこのセカイですが、
物事というものは分かっているようで全く分かっていないものです
 

言葉は形なきものにその存在を享受するものでありますが、
レヴィーストロースの言を借りれば、
表現されるものと、表現するものの間には常に不均衡が生じており
言葉は正確には事実、思考を表現するものではないという不安を覚えるものなのであります。
 
 
「おしり」を例にしてみましょう。
おしりと言ってしまえば、
だれしもがおぱんちゅの中に封じ込められたピーチ姫、ひと繋ぎの財宝、神秘的な双丘、幻のマシマロ等と容易に想いを巡らせるものですが、
おしりというものは実際には捉え難きものなのであります。
 

なぜならば、おしりには明確な境界が存在し得ない、肉体の連続性に内包されているからです。
パンツの中に収まっているものと定義するおしり論者もいますが、
コップの中に収まった水が水の全てではないように、
パンツの中に収まったおしりがおしりの全てではございません(一体なんの話をしているんだ?)


そこにはレヴィーストロースの不均衡が確実に横たわっているのです。


この状況においては、
「明確な境界線を確立しえない以上、もはや人体の全身はおしりである!」
と主張するおしり左派が現れるのも時間の問題でしょう。

 
仮におしりかじりむしが就職面接に臨んだとして、
彼は当然
「人間22年、ひたむきにずっとおしりをかじってきました」
と自己アピールするに相違ありませんが、
 
 
担当面接官の想起する「おしり」の範囲をX、
おしりかじりむしが22年間かじってきた「おしり」の範囲をX'としたとき、
それらの関係性はX≠X'であり、
表現されるものと、表現するものの間には常に不均衡が生じることを起因とする主観世界の乱立は、
我々人類の間に莫大なるコミュニケーションコストを要求しているのです。
 
 
そんな不可解な世界ですが、
案外心が通じ合ったり平和に生活できているあたり、
人類の認識世界には未だ解明されていない共通スキルがあるのかもしれません。