この形のトイレが苦手

 

田舎者だからなのか、
このタイプの便器があるトイレで用を足すことになるときは、非常に落ち着きが無くなります。
真顔でスタイリッシュに放尿をしてはいるものの、
内心地曳網み漁にかかった魚のような気分で用を足すこと、言い得てが妙とするべき他ありません。
 
 

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器の形状をした包容力のある(プライベート空間が担保されている)便器にこなれている分、
百貨店や東京の厳つい施設のトイレに足を運ぶたびに
壁に向かって用を足しているようで、
全然悪いことをしていないのにも関わらず、凄く悪いことをしている気分になるという、
謎の罪悪感に苛まれ恐怖し続ける木更津市民は私だけではありません。
 
 
更に決まりの悪いことに、
このトイレは隣が従来にも増して「丸見え」、
これぞ透明性が重視される時代の流れとも言うべきかもしれません
 
 
どうもこの時代の先端を走るトイレに
木更津市民が戸惑い続ける大きな理由としては、
どうも日本人が抱える「プライベート空間やプライバシー概念に対する認識の強度」に起因するところが大きいのではないかという仮説を持っております。
 
 
単純に日本と欧米との2軸のフレームワークで語ることのナンセンスさを一旦棚に上げておくと、
文化人類学エドワード・ホールのプロクセミックスに関する著書『かくれた次元』がこの仮説の補強に一役買っております。
 
 
 
その研究の概要としては、
アメリカ≫
・敷地の境界に塀や生け垣などがない家が多い一方で、建物内に足を踏み入れることは家主の許可がなければ不可能で、下手をすれば銃を発砲されたりする
・公私の観念が二極分化
・自分を中心とした約4フィート(約120㎝)以内の空間で、その空間内に他人がなんの断りもなしに入ってくることを嫌う
・プライベート空間が担保されている分、原則を破った積極的な身体的接触(プライベートの解放)が他者承認のプロセスで有効
 
 
≪日本≫
・敷地はブロック塀や生け垣などで境されていることが多く、一見他人の侵入を拒んでいるようだが、地方では家の玄関は鍵がかかってないか戸が開け放たれていることも多く、アメリカの家とは対照
・日本語にプライバシーを表現する言葉がない
・公私の空間的境界が曖昧 (例:満員電車の中でぎゅうぎゅう詰めで立っていても、日本人は欧米人ほどには苦にならない)
・プライベート空間の境界が曖昧のためにそもそも他者承認として身体的接触が帰結しない
 
 
その意味で、
従来型のトイレは公私の観念が二極分化した「欧米スタイル」のトイレに慣れ親しんで仕舞った
可哀相な日本人は、トイレ分科会においては「寄らば斬る」的な発想で放尿をしているのであります。
 
 
この一見新しいスタイルのトイレは日本人の中に眠っていた放尿スタイルの王政復古ともいうべきでしょう。