やばいトイレ

 

眠れぬ獅子、
もうこんな土地転居してやるわ! 
と言わんばかりに深夜に鳴り止まないサイレンに激おこぷんぷん丸な訳ですが、

転居にあたり色々物件を調べてみると、日ノ本には実に興味深い物件が多く散見されます。
 
 
私は普段血液型を言い当てられたことがないのですが(高確率でB型と言われます)、
トイレの風呂が別のセパレートでないと気が済まないことを鑑みるに、
己に神経質なA型の血が隆々と流れていることを痛感致す限りでございます。
 
 
風呂場で排泄をしてはならぬ、
プールで小便をしてはならぬという、
先人の智慧の履行にやぶさかではない私にとってユニットバスというものは、
もはやそれは禁忌に近似するのであります。
 
 
そんなトイレ個室原理主義組織に属する私にとって、
アングロサクソン流合理主義はここまで人間を貶めたか!
という見出しが新聞の見出しを飾らんとばかりのトイレ形態を発見致しました。
 

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なんということでしょう。
 
 
まさに料理を創造せんと欲すキッチンの横で、
しかもなんの仕切りもない中にトイレが設置されているこのシュルレアリスムは、
サルバドール・ダリの世界を再現した、「ダリの家」と言われなければ、
世間が許してくれない事象なのであり、こんなものはもはや野糞なのであります。
 
 
動物が有する野性的なあり方をゾーエとし、
例えば人間の排泄はこれにあたるものとしていますが、
公的には敬遠され、秘匿されている存在であると指摘しています。
この施設のデザイナーは、人間のゾーエのみが秘匿されている現状を憂慮し、
地球上の全生物と一体化することで都市生活からの脱却を隠喩することを意図しているに相違ありません。
 
 
しかしながらトイレ個室原理主義組織構成員は、
声を大にしてこの形態が人間の社会的生活の要素を度外視していることを弾劾するのである。
 
 
ケース①:友達と鍋パーティーをした場合
 
ある日の暮れ方のことである。
3人の下人が「ダリの家」に集結し、鍋を囲むことと相成つた。
一思いに鍋パ―ティーの所為である。
会合は中盤を迎え、各々が便意を催すのは当然の成行であつた。
「ちょっとお手洗い借りるわね」
「ああ、そこに剥き出しになつているぜ」
排泄音と、鍋の音が室内にこだまする。
さながら其れは食物連鎖のオーケストラ…
 
 
ケース②:田舎から息子に会いに上京してきた母親を招いた場合
 
ちゃんと飯を食っているのか?
無駄遣いはしていないのか?
困っていることはないのか?
仕切りに息子を心配する母。
少しおせっかいでもあるが、それは都会の喧騒に精神を削っていた息子にとって懐かしさと同時に一定の心地よさの感情をもたらしていた。
「ちょっとお手洗い借りるわね」
「ああ、そこに剥き出しになっているぜ」
上京してきた母の無慈悲な排泄の模様を目の当たりにする。
息子は色々なものが台無しになったことを知った。