ごはんおかわり自由

 

ごはんおかわり自由というのぼりを掲げているお店は多く、
炭水化物のためなら命すら惜しまないフードファイターの猛者達の引き寄せの術のひとつがこの「ごはんおかわり自由」
 
 
な訳ですが、ポスト新古典派経済学エコロジー経済学の観点に立てば、
大いなる争点は「米資源の有限性」に辿り着きます。
 
 
全社は米資源が半ば無限に利用することができるものと捉え、消費によって効用が促進されるという立ち位置で、
対する後者の場合は、米資源は店の釜の容量の有限性に配慮した上で、充足理論を積極的に支持する立ち位置を採用しています。
 
 
言わずもがな、いくらおかわり自由といっても店の釜には限界がありますので、半無限的に米を貪り続けることは不可能なのは火を見るよりも明らかです。
 
 
ではこの「自由」というものは、「釜の容量の上限」という「条件付きの自由」であると言えるのでしょうか。
飲食店は、「ごはんおかわり条件付き自由」というのぼりを掲げないと歴戦のフードファイターに虚偽記載のレッテルを貼られなければならないのでしょうか。
 
 
この流れからは、社会通念上の「自由」という認識についてしっかりとした仮説と定義が必要になってくるのですが、
「自由」という捉えどころのない概念については、
 
アイザイア・バーリンの云った「消極的自由」と、
イマヌエル・カントの云った「自律的に行動する自由」の整理から始めなければならないので、
 
「ごはんおかわり自由」という問題は実に根の深い問題です。