胎児の記憶

 

 
人間は3歳ぐらいまでは
胎児の記憶があるらしいのですが、
物心がつくと一旦リセットされて勝手に忘れるそうです。
 
 
しかしながら、人間が「なぜか落ち着く」と感じるような
・狭い所隅っこ大好き
・水の流れる音に癒される
・丸くなって寝る
等は、
 
 
胎児の時の記憶がどうも作用しているとのことです。
例)
・狭い所隅っこ大好き(胎内の居住環境)
・水の流れる音に癒される(母親の血流の音)
・丸くなって寝る(胎児ポーズ)
 
 
この人類が持つ回顧主義、帰巣本能は、
さながらシャケが「なんかしらねえけど川のぼりてぇな~のぼりてぇよお~」と
西行法師がブログをやるよりも無目的な状態での決起を否応なく推進し、
 
 
世間向きの顔とは裏腹に、夜な夜な「赤ちゃんプレイ」に勤しみ
胎児の記憶を呼び覚まそうとする過激な胎児原理主義組織構成員を育成することに繋がっていきます。
 
 
昨今がそんな「胎児」ルネッサンス期の全盛であることを物語るように、
先日テレビにて流行っているリラックス方法が紹介されていたそうです。
 

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実に壮観、これが個々に蠢く訳ですから、
中から変なエイリアン的な生き物が生まれてきそうな奇天烈なリラックス法ですが、
ものはためしで今度自宅でやってみようかと思います。
 
 
さてこの胎児に学ぶリラックス法、
「そもそも胎児自身はリラックスしているんだろうか」という疑念が湧きあがってきますが、
「胎児・赤子がリラックスして健康でいるのは所与である」という乱暴な前提に立って、
胎児~稚児の生態を研究して生まれたのが、
「コンディショニング」というものです。
 
 
その名の通り、身体を整えるものですが、
中心となるものは、1日2万回とも云われる呼吸方法の改善です。


赤ちゃんの時点まで戻って
「呼吸の確認→寝返り→うつ伏せ→ハイハイ(よつ這い)→座る→立つ→歩く」
という過程の一部を切り取って、呼吸に胸郭、背骨、首まわりの筋肉の再教育を行い、
身体をリラックスさせるのだとか。
 
 
胎児や赤ちゃんはいわばヒューマニズムの原液なので、
その生態をしっかりルール化すると、人間の生き物としての知恵が垣間見えるような気がします。

おしりかじり虫はどこを齧っているのか?

 

かの"煩悶青年"である藤村操をして「不可解」と言わしめたこのセカイですが、
物事というものは分かっているようで全く分かっていないものです
 

言葉は形なきものにその存在を享受するものでありますが、
レヴィーストロースの言を借りれば、
表現されるものと、表現するものの間には常に不均衡が生じており
言葉は正確には事実、思考を表現するものではないという不安を覚えるものなのであります。
 
 
「おしり」を例にしてみましょう。
おしりと言ってしまえば、
だれしもがおぱんちゅの中に封じ込められたピーチ姫、ひと繋ぎの財宝、神秘的な双丘、幻のマシマロ等と容易に想いを巡らせるものですが、
おしりというものは実際には捉え難きものなのであります。
 

なぜならば、おしりには明確な境界が存在し得ない、肉体の連続性に内包されているからです。
パンツの中に収まっているものと定義するおしり論者もいますが、
コップの中に収まった水が水の全てではないように、
パンツの中に収まったおしりがおしりの全てではございません(一体なんの話をしているんだ?)


そこにはレヴィーストロースの不均衡が確実に横たわっているのです。


この状況においては、
「明確な境界線を確立しえない以上、もはや人体の全身はおしりである!」
と主張するおしり左派が現れるのも時間の問題でしょう。

 
仮におしりかじりむしが就職面接に臨んだとして、
彼は当然
「人間22年、ひたむきにずっとおしりをかじってきました」
と自己アピールするに相違ありませんが、
 
 
担当面接官の想起する「おしり」の範囲をX、
おしりかじりむしが22年間かじってきた「おしり」の範囲をX'としたとき、
それらの関係性はX≠X'であり、
表現されるものと、表現するものの間には常に不均衡が生じることを起因とする主観世界の乱立は、
我々人類の間に莫大なるコミュニケーションコストを要求しているのです。
 
 
そんな不可解な世界ですが、
案外心が通じ合ったり平和に生活できているあたり、
人類の認識世界には未だ解明されていない共通スキルがあるのかもしれません。

貞子と伽椰子の商圏バッティング

 

映画よりもゲオのDVD派というケチな家系に産み落とされたので
基本的には映画館に足を向けることはありません。
スターウォーズ新作のような有事においては、然るべき対応を直ちにとり、息を吐くかのように劇場に着席するぐらいです。
 
 
広告やカミングスーンは結構みるので、
公開日からゲオの棚で旧作になるまでを妄想しては、
「これはカミング一年後だなあちくしょう」等とケチ心極まっている訳です。
 
 
最近とりわけ気になっているのが、「貞子vs伽椰子」という異種格闘技戦ものです。
 
 
いや待ちなさい、貞子と伽椰子が怨念そっちのけで女子の喧嘩(上履きを隠す・シカトをする・髪の毛を引っ張る・根も葉もない恋愛関係情報を流布するetc)をしていたら、
いつも呪い殺されている要因の人がとっても暇人になってしまうんじゃないでしょうか、
 
 
なんていう素朴な疑念がふつふつと湧き上がっては悶々とせざるを得ません。
 
 
貞子さんと伽椰子さんのようなレジェンド級の妖怪は、
はたまた湘南ナンバーのエルグランドとセルシオみたいに
「なんだこらてめえ~」と縄張り争いをするほどに商圏がバッティングしているんですね。
呪われる側の地元民はたまったものではありません。
 
 
なぜバッティングが起きたのかを妄想しますと、
ひとまず呪える人口=商圏人口×呪いにひっかかる率
と定義するとします。
 
 
呪いにひっかかる率(生産性)は、彼女らはWebマーケやDM等の集客ツールがうてないので、
貞子及び伽椰子の叩き上げられた営業力でじわじわ上げていくしかありません。
そこでてっとり早く呪える人を集客するためには、心霊に興味津々の阿呆な若者が多い商圏へと進出する羽目になるので、商圏バッティングがおきてしまうのかもしれません。
 
 
「貞子vs伽椰子」のようなとりあえずバトらせてみた系の映画は「エイリアンvsプレデター」や、最近でいうとアイアンマンとキャプテンアメリカ仁義なき戦いおっぱじめて「シビルウォー」してましたが、
私にはローマ帝国の「剣闘士」的な余興に感じられます。
 
 
人間は何かと夢の共演殺戮系バトル、穏やかに言えば異なる世界観の融合とその総和に興奮するようにできているのかもしれませんね。
それを最も体現したのが、大乱闘スマッシュブラザーズであったりする訳です。